貪欲に戯言をぬかそう

"Try to know something about everything, everything about something."
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世界の広がりを自由とするならば

 
「大人になると自由だけど、その代わり責任が増える」

そんな言葉を、僕は幾度となく聞いてきた。


でも最近は、若干の齟齬はあれども、むしろ因果が逆な気もしてきた。


制限やルールがあるからこそ、ある種の自由が始まる。

その世界の文脈を共有して初めて、自由を迎え入れることができる。



世界が広がれば、自由で、気持ちいい。



サッカー、なんてどうだろうか。

ルールや文脈を知って初めてサッカーに参加・観戦でき、

だからこそ天才的なプレイを実演・観測できる。


サッカーの巧い人をファンタジスタって呼ぶけど、

Fantasista - Fantastic - Fantasy......

つまり、既知の現実を超えるからこそ得られる幻想感のようなものがある。

でも観測者としての僕の感想は「なんかすごく巧いね」という域を出ない。


音楽もそう。僕は「なんとなく好き」の域を出ない。

ルールを分かってる人はコードの進行なり高度な指の動きなりに感動する。


美術もそう。なんかとても絵が巧い、ね。

学問だって、ほとんど、そう。

僕は、(たぶん僕らは)、世界の広がりを受け入れる準備ができてない。



競技にしろ絵画にしろ、「成果」が「期待」を超えたとき、

初めてそれは幻想を帯びる。


それは意味するのは、閾値を超える「成果物」と共に、

複雑な文脈を持った「期待値」が必要ということ。


見る側もコンテクストを理解しないと、素晴らしさは理解できない。

僕らは縛られてはいないけど、自由じゃないんだ、きっと。


世界を広げるのは、自由だけど、しんどい。



ところで。


「オトナになると物事を純粋に楽しめない」

そんな言葉も、僕は幾度となく聞いてきた。


きれいじゃないものを知りすぎたワタシ、みたいなやつ。


でも何も知らない子どもだからこそ感動する、なんて、

人間らしさというより動物らしさでしかない。


快-不快だけで楽しむことってそんなにきれいなことなのかな。



純粋な子どもの範囲から漏れてる僕は、それくらいの強度で反発してみる。


僕が見るのは、前後に伸びる良くできた細い道じゃない。


目の前にある、見えるような見えないような、

たぶんきれいな泥沼の類い、だから。


正しく自由になることは、逃げることとは違うこと。





新しい世界で、新しい感動を得たいのなら、文脈を学ばないと。


社会的言語、ルール、制限の中でのパフォーマンス。

今さらだけど、シューカツで優秀と認められるか否かも、そこだったかな。

社会の期待するルールの組合せでの、期待以上のパフォーマンス。


テレビゲームでもボードゲームでも、ゲームで勝つためには、

ゲームのルールを理解する必要があって。


社会のルールが染み付いている場合は意識する必要はないけど、

期待の外で生きてきたのならば、世間知らずを捨てないと戦えない。


とは言ったものの、僕の快-不快のラインはその間にあって、

その海溝は深いなと。




でも結局ルールをつくるのは、強力なプレイヤーでもあるはずで。

だからこそ僕は、批評家ではなく行動者として、

「やぁやぁ、我こそは...!」と鎌倉時代のように生きてみたいのです。



要するに、

目が覚めると牧場に投げ込まれていた森の子鹿は

そこにいるたくさんの飼いならされた牛たちを見て、

「こいつらなんでしあわせそうなんだよとアホか」

と、心中で悪態をつきながらも、

「オレは最高の鹿だぜ」と宣言することを諦め、

一緒になって牛舎で並んで草をはむことにして、

とりあえず一緒に最高の牛を目指しながらも、

定期的に「ここ狭くない?」「奇蹄目の方がいいよね?」なんて言いながら、

最終的には牛舎のすべてを観念的な森にしてしまいたいということ。


いや全く要してないけど、

ともかくもうしばらくは自覚的に生きてみたいなと、

そんなことを思う、春です。

author: 猫八
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