貪欲に戯言をぬかそう

"Try to know something about everything, everything about something."

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近況など

おはようございます。

社畜になるかと思いきや、未だに飼いならしていただくことすらなりません。
毎朝4-5時に起きて楽しくやっております。

今月はちょっとした資格を取るようで、
受かれば上乗せが100万弱、落ちればゼロ、さらに進路も不安定に、みたいな感じらしいです。
しかし去年の合格率が15%とは、相変わらずのブレない鬼畜っぷりですね。


ところで最近は管理会計をかじってますが、割と楽しく有用ですね。
やっとビジネスの仕組み(の入口)が見えてきたような気がします。

7月中旬からは仕事が始まるので、
それまでに何を、どうすれば、という感じです。

ではでは。
author: 猫八
徒然 | permalink | comments(2) | -
 
 

子犬も踊る


こんにちワン。

『これから半年間はいつ首を切られても合意いたします』

という誓約書にサインをさせられ、毎日震えている社畜です。

こんにちワン。




4月も後半になりましたが、月並みに新人をやってます。
研修はほとんどサボっていますが、
ただそこに在るだけの人形となること、に関しては習熟してきました。


そういえば最近同期には先輩からのプレッシャーで混乱が広がっています。

(要約:お前らゴミみたいな能力しかないけど自覚してる?
せめて生ゴミから資源ゴミにならないと、夏には燃やされてるよ?)


とりあえず僕は自分の信じることを、
いつもよりちょっと小走りでやってみるだけ、
というくらいに思ってます。


同じ社畜でも、イヌとかウサギじゃなくて、
ライオンくらいにはなってみたいものですね。


さよなライオン。
author: 猫八
徒然 | permalink | comments(3) | -
 
 

世界の広がりを自由とするならば

 
「大人になると自由だけど、その代わり責任が増える」

そんな言葉を、僕は幾度となく聞いてきた。


でも最近は、若干の齟齬はあれども、むしろ因果が逆な気もしてきた。


制限やルールがあるからこそ、ある種の自由が始まる。

その世界の文脈を共有して初めて、自由を迎え入れることができる。



世界が広がれば、自由で、気持ちいい。



サッカー、なんてどうだろうか。

ルールや文脈を知って初めてサッカーに参加・観戦でき、

だからこそ天才的なプレイを実演・観測できる。


サッカーの巧い人をファンタジスタって呼ぶけど、

Fantasista - Fantastic - Fantasy......

つまり、既知の現実を超えるからこそ得られる幻想感のようなものがある。

でも観測者としての僕の感想は「なんかすごく巧いね」という域を出ない。


音楽もそう。僕は「なんとなく好き」の域を出ない。

ルールを分かってる人はコードの進行なり高度な指の動きなりに感動する。


美術もそう。なんかとても絵が巧い、ね。

学問だって、ほとんど、そう。

僕は、(たぶん僕らは)、世界の広がりを受け入れる準備ができてない。



競技にしろ絵画にしろ、「成果」が「期待」を超えたとき、

初めてそれは幻想を帯びる。


それは意味するのは、閾値を超える「成果物」と共に、

複雑な文脈を持った「期待値」が必要ということ。


見る側もコンテクストを理解しないと、素晴らしさは理解できない。

僕らは縛られてはいないけど、自由じゃないんだ、きっと。


世界を広げるのは、自由だけど、しんどい。



ところで。


「オトナになると物事を純粋に楽しめない」

そんな言葉も、僕は幾度となく聞いてきた。


きれいじゃないものを知りすぎたワタシ、みたいなやつ。


でも何も知らない子どもだからこそ感動する、なんて、

人間らしさというより動物らしさでしかない。


快-不快だけで楽しむことってそんなにきれいなことなのかな。



純粋な子どもの範囲から漏れてる僕は、それくらいの強度で反発してみる。


僕が見るのは、前後に伸びる良くできた細い道じゃない。


目の前にある、見えるような見えないような、

たぶんきれいな泥沼の類い、だから。


正しく自由になることは、逃げることとは違うこと。





新しい世界で、新しい感動を得たいのなら、文脈を学ばないと。


社会的言語、ルール、制限の中でのパフォーマンス。

今さらだけど、シューカツで優秀と認められるか否かも、そこだったかな。

社会の期待するルールの組合せでの、期待以上のパフォーマンス。


テレビゲームでもボードゲームでも、ゲームで勝つためには、

ゲームのルールを理解する必要があって。


社会のルールが染み付いている場合は意識する必要はないけど、

期待の外で生きてきたのならば、世間知らずを捨てないと戦えない。


とは言ったものの、僕の快-不快のラインはその間にあって、

その海溝は深いなと。




でも結局ルールをつくるのは、強力なプレイヤーでもあるはずで。

だからこそ僕は、批評家ではなく行動者として、

「やぁやぁ、我こそは...!」と鎌倉時代のように生きてみたいのです。



要するに、

目が覚めると牧場に投げ込まれていた森の子鹿は

そこにいるたくさんの飼いならされた牛たちを見て、

「こいつらなんでしあわせそうなんだよとアホか」

と、心中で悪態をつきながらも、

「オレは最高の鹿だぜ」と宣言することを諦め、

一緒になって牛舎で並んで草をはむことにして、

とりあえず一緒に最高の牛を目指しながらも、

定期的に「ここ狭くない?」「奇蹄目の方がいいよね?」なんて言いながら、

最終的には牛舎のすべてを観念的な森にしてしまいたいということ。


いや全く要してないけど、

ともかくもうしばらくは自覚的に生きてみたいなと、

そんなことを思う、春です。

author: 猫八
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穏やかな痛み



僕は帰省の真似事をする。

それはいつも典型的な意味を持ち合わせず、慣例的、義務的なものに近い。

心身を休めるというよりも、むしろ掻き乱される方が多いかもしれない。


ただ、ぼんやりとした長さの目的としては、

割とリアルに"生きている"ことを確認し合う、というのはある。


僕はまだ一つの終わりを終わりとして受け止められず、

10年以上も腑に落ちていない。


だからこれからどうやら必ず来るらしいそれらを、

正しく受け入れるための"構え"だけはしておこうと思う。





ともかく、掻き乱されるのはいつものこと。

それは穏やかで、苦しい。低温火傷の様なもの。


ただ今回はいよいよ迫る時間切れのせいか、治癒の進行が遅い。

これだけ巧く逃げているのに、本当にジクジクと痛む。

まいったね、本当に。





そういえばいよいよ自分の周りにも結婚した人、する人、などが現れ始めた。

たぶん本当はすでにもっといたはずだ。


いま僕がいるような狭い範囲ではないにしても、

もう少し広い同世代に蔓延する"結婚観"のようなものがよくわからない。


いちおう若い部類に入る僕らには、まだ世間的結婚圧力のようなものはない。

それなりの善き環境で育ち、まだそれなりに広がっていく可能性を持つ。


そのうえで「大好きだから結婚する」みたいに結婚されると困惑する。



高校生あたりでよく見られる、

「誰よりも愛し合っていて、嫌いなとこなんてない。

 絶対にずっと一緒。世界で一番しあわせな私たち。」

というセカイ系的な "愛の全能感" が、割と昔からしっくりこない。


そしてその全能感の砂の城を何度もつくり、壊し、つくり......そして...結婚、

というのは本当に戸惑う。


これまで散々繰り返してダメにしてきた"絶対"と、

いま持っている"絶対"は一体何が違うのだろうか。


開いてしまった口は、どうにも自力ではふさがりそうにない。


しかし結婚談義の外野にいたはずの自分も、実はもう内野に投げ込まれている。

いよいよ自分もそんな歳になったのかと気付き、頭を掻くしかない。


月並みだけれども、口を開けながらも彼らのしあわせを願っておくことにする。

みんなで違う方向へ歩いたから、埋められない何かがあるのは仕方ない。




うん。


いつも何度も、気づいて - 忘れて、を繰り返してしまうけれども、

これまでの道程で見てきた風景や、知らずに蒔いてしまった種は意外と多い。


今となってはそこに木が育っているか、雑草が生えているか、

はたまたマンションが建っているか、まったく分からない。


そんな過去の風景の記憶を回収し、更新することは、穏やかに心を掻き乱す。

ドリッパーで傷口に塩水を垂らすように、少しずつ、深く、疼く。


でもその遠景の中で、穏やかに、健やかに、膿んでいくのも悪くない。

なんとなくそんな気はしている。

author: 猫八
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AIBO

3歳のころ、僕には相棒ができた。

メスの柴犬、名前はチビ。
兄妹の中でも、一番小さかったから、チビ。

でも頭はとても良かった。
他に飼われていたどのイヌよりも、
器用で、賢かった。

僕らの散歩コースは山の中。
いつもチビは走っていた。いつも何よりも速かった。
あれより速いイヌは未だに見ていない。

そしていつもそのままの勢いで僕に突進してきた。
僕は吹っ飛ぶ。僕は泣く。

しばらく力関係は崩せなかったけど、
ともかく僕らは仲良しだった。


それから数年後、僕は引っ越すことになった。
祖父の家にいたチビとは離れることになった。

犬は飼い主の恩を一生忘れないという話はよくあるけど、
もちろんチビもそうだった。

離れて何年経っても、会うと必ず、とびついてきた。
でももう泣かされることはなかった。
力関係の逆転。圧倒的勝利。

僕らはいくつになっても、会う度にいつもの山を散歩してた。




しばらく時を経て、たぶん僕が19歳くらいのころ、
ひさしぶりにチビに会った。

彼女はもう年老いていて、前みたいに走ることもなかった。
歩くことも面倒で、周囲への関心も薄れていた。

それどころか、僕のことすら忘れていた。

それなりにショックだった。

あれだけ元気だった彼女はボケてしまい、
それは同時に別れが近いことも意味していた。

老いるって、そういうことなのか。
当時の僕はそう感じていた。

ほどなく彼女は他界したらしい。
想定していたほど、あまり哀しくもなかった。
忘れられた身としては、そんなものだろうなと思った。




それからまた数年が経った。
ふと彼女のことを思い出す。

今になって考えてみると、彼女はボケてたわけじゃない。
あの日、僕に見せた態度は。

「しばらく見ない間に、つまんなくなったね」

きっとそんな、意志を持った無関心だった。

あのころの僕にまとわりついていたものは、
概ねくだらないことだった。




いまの自分なら、またチビと一緒に走れる気がする。
あの山で、日が暮れるまで、湧き水の目印を目指して。

もうきっと、泣かされることはないけれど。
author: 猫八
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フリーな世界

僕はいま涼しい部屋でコーラを飲んでいる。

コカコーラ、ゼロ、フリーってやつ。


YouTubeで80年代のコーラのCMをいくつか見ていたら、

急に飲みたくなって買ってきた。いいCMだ。


何がゼロで何がフリーなのか分からないけど、

どうやらいろいろとないらしい。


プレスリリースを検索すると、


コカ・コーラ ゼロの美味しさと炭酸の刺激はそのままに、

 さらに「ゼロ」を追求しました。

糖分ゼロ、保存料ゼロ、合成香料ゼロに加えて、

カフェインもゼロ(=カフェインフリー)となっております。』


と、ある。


どれもあまり興味はないけど、

つまりはリスクフリーってこと。




少し前の話になるけど、少し遠くに旅をした。

そこは空の青と、海の青と、丘の緑と、羊の白で大体説明できる。


近くの丘の上に羊を見つけて、登ってみた。

大したことのないように見えたその丘は、

登り始めればほとんど崖だった。


ディスプレイされた無菌室の世界とは違って、

丘を覆っていたのはきれいな緑ではなく、

ほとんど羊のフンだった。


僕はその感覚にいたく感動して、

ずっと緑と空とフンとを見比べていた。


リアルな世界。

きれいでなくて、きつくて、あやうい、

何からもフリーでない世界。




そういえば。

魚を切り身でしか見たことない子どもたちが、

骨のある普通の魚のことを魚だと思わなくなるという話を聞いた。

寒気のする話だ。肉なんてもっと顕著に一致しないだろうね。


でも、きっと、

僕と彼らの間に大きな断絶はなくて、

単なる程度の問題なのだろう。

とてもなだらかな関係性。




ともかく僕らはたくさんのリスクからフリーだ。


酒で酔っぱらって余計なことして後悔、なんて少し古い。

いまはアルコールフリーな不思議な飲み物がある。


船とか飛行機に乗らなくても、世界の絶景ランキングを楽しめる。

お金も時間も疲れも要らない。世界のことなんて大体わかる。


ケータイ、メール、twitter。

すれ違いなんて小説の中だけ。みんなといつでもつながってる。



フリーな世界。

ステキな世界。



一般論だとか社会かくあるべきだとか言いたいわけじゃなくて、


あくまで今の僕にとっていくらかの意味を持つことは、

そのフリーな世界から、少しだけフリーになること。


コーラを飲みながらの、単なる戯れ言。




P6061382.JPG
author: 猫八
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ゆらゆら

あ、どうも。

いろいろありましたが一段落しました。

短期的にはあまりうれしくない結果ですが、
長期的にはそれなりに有意義な結果ですね。

いま考えたいことは、
5年後のベクトルの向きを規定するであろう、
1年後からの土台作りをいかにして展開し、
走り始めるまでのこの1年間をどう生きるか。

少し前に経験した2年間はそれまでの10年間と等価であり、
この半年はその2年間と等価であったように感じます。

では次の1年間の価値をどうしたいのか。
しばらくは歩きながら考えようかと思います。
author: 猫八
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ペルソナ新年

あけてました。おめでとうございました。

去年は20弱ほどしか投稿してませんが、
blogを始めてからは250くらいやってます。
加えて期間はもう4年以上になるようです。

まだしばらくは続けていこうと思います。


ところで、
このblogを読んでくれている人は以下のように分けられます。

僕のことを知ってる人
僕のことを知らない人

特にキャッチーなことを書くわけではないので、
前者が大半だと思います。

さらに前者は2つに分けられます。

blogを読んでいることを僕が知ってる人
blogを読んでいることを僕が知らない人

前者でありうる人は数十人ほど。
後者はまったく分かりません。

前者だけでも誰に向けて書けばいいのか分かりませんし、
後者が加わるとどうしようもない。

しかしそれ以上に恐怖が付きまといます。

後者の人々は、
できればここでの一面を知ってほしくない身近な人かもしれないし、
なにか微妙な距離感の人かもしれない。

双方向性もなく一方的に僕の腹の内を見られ続ける。
それによって一方的に僕の像を修正していく。

それってなかなかのプレッシャーですよね。



でも僕がblogを書くのは、表現することから逃げないため。

たかがこれだけの文字数で、そもそも文字情報なので、
誤解されるかもしれないし(むしろ正確に伝わることなんて6割くらいでしょう)
普段との違いから失望されるかもしれない。
もしかしたら(あまりないとは思うけど)変に美化されるかもしれない。

それでもそれらのリスクを全部受け入れる強さみたいなものが必要で、
極度に自己表現を嫌う僕にはそれがリハビリ。

気分によって文体は変わるし、もしかしたら主張すら違うかもしれない。
それでまた上記の齟齬を生むかもしれない。

誰かを思い浮かべて書けばある程度防げるけれども、
でも結局誰に書けばいいのか分からない。

僕はどう解釈されようとも、その評価を受け入れるしかないのです。
「本当の自分」の存在をことさらに主張しても仕方ない。

だからこれからも顔のない人形に対して戯言をぬかそうと思います。


でも実は読んでますよと教えてもらえたらそれはそれで助かります笑
author: 猫八
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消費する わたし

帰省しました。義務的に。
新幹線の車内で考えてたことをテキトーに載せます。


「消費すること」は「生きること」とほぼ同義ではないでしょうか。
人生の消費という話ではなくて、
モノやサービスの一般的な消費において。

たとえば僕は帰省中に
「新幹線」で
「iPhone」上の
「音楽」を聴きながら
「本」を読みつつ
「伊右衛門」を飲みながら
「トッポ」を食べてました。

ついでにそれぞれ違うブランドの
「ダウンジャケット」や
「変わったパーカー」を着て
「小さめのリュック」を持っていました。

本来の目的が「移動」であることに着目すると、
前半において新幹線以外は余分な消費といえます。

服装にしても、すべてユニクロかしまむらにしてしまえば半額以下でしょ
うし、
リュックも大きい方が機能的です。

しかし必要を超えた、もしくは度外視したそれらの消費がなければ寂しい
ものです。

さらに言うと生きることに潤いがなくなります。

つまり消費に高度に依存して生きているのです。


まとめると、消費には必要的な消費と快楽的な消費があります。
「足りないから」消費と「欲しいから」消費とも言えます。

また必要的な消費はあまり変化しませんが、快楽的な消費は増え続けるで
しょう。

それにより人生における消費の占める領域は拡大し、
消費すること=生きることに漸近的に近づいていると考えられます。

それゆえ、生きることとは何か、しあわせとは何かを考えるときに、
「消費するとは何か」を考える必要性がますます増えていくのではないで
しょうか。


なんてね。
iPhoneからなので文章書くの大変です。


そういえば今年は派遣村を国が公設派遣村ということで宿泊施設を提供す
るということをニュースで見ました。
なんだかすごく見覚えがあると思ったら、
どう見てもオリンピックセンターでした。
僕の第二の家です。

とりあえずシーツ関連でよく怒られるので気をつけてください。


それではよいお年を。
author: 猫八
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変態力

気付いてしまった。僕は普通だ。いや、中途半端か。

自分は普通だと気付き、日々を過ごすうちに徐々に忘れ、また思い出す。
このサイクルはよく来るけど、今回はポジティブに深く絶望してる。

最近、社会人に会い、痛感した。

僕は会う人全員に「頭いいね」「優秀だね」と言われる。
しかしそれに何の価値もない。

その方向性なら、怖いくらい完璧で半年は頭から離れないくらいキレがないとダメだ。
「へぇ」では何も残らない。多分、同世代に数千人いる。

しかしながら僕には先天的な頭の良さの類いはないので、突き抜けられない。
それは分かっていて、だからこそ自分は普通だと常に思っていた。

だからこそ努力し、思考し、カバーしようと。

でもその努力で one of them から抜け出しても、
結局その them の層が変わっただけだった。

僕は誰の心にも残らない。瞬間風速が低過ぎる。温帯低気圧。


で、結論。

1時間会話して「優秀だね」ではなくて、
10分会話して「こいつ変態だな」と思われるくらいじゃないとダメだ。
いま必要なのは、そういうブランド変容。

あくまでも僕にとっては、多分それが革命的に必要で、
その壁を越えないと誤差の範囲の成長でしかない。


しかし変態とは何か、が難しい。

もっとキャラクタを誇張すれば変態なのか。
もっと知識を偏らせたら変態なのか。


ふむ。


先日、僕が所属する組織(学生団体・ゼミ)の代表選挙があった。
前者は候補者一人の信任投票、後者は候補者三人の決選投票。
前者は不信任され、後者は票が割れながらも一人に決まった。

結果の違いは組織のシステムの違いだけであって、中身は変わらなかった。
優秀な学生が、巧いことを言って、きれいにまとめようとしただけ。

何も響かない。
思わずどちらにも「はやくつぶれろこんなクソ組織」と言ってしまった。


ただ、
いまの僕との違いは、
自分自身をつまらないと気付いていることくらいではないだろうか。


もっと踏み込まないと。


相撲は立ち合いが8割。
author: 猫八
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